ちんもくの日記

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泳げないその途上:本の感想『はい、泳げません』著/高橋秀実

疑問を抱ける人に憧れて

「疑問を抱ける」ということは、何かを知る、または何かをできるようになるための第一歩だ。

考えてみればテレビ番組の多くが、「まずは視聴者に疑問を抱かせる」という手法を採用している。(今で言えば、『林先生が驚く初耳学』とかだろうか。)
それから、とりあえず芸能人に珍妙な解答をさせ、そして引っ張って引っ張ってCM挟んで答えを出すという流れ。
たしかに、疑問➡思考➡結果という、人間が知識を得るためのプロセスを経ているのだけれど、「はぁ~んやっと知れた…」という安堵のわりに、その時得た知識は次の日には忘れるという程度だ。
なんという微々たる快楽なのだろう。私はあんなにもCMを呪っていたのに。


でもこの問題は単純で、疑問が自発的なものではないという一点に尽きると思う。
ちょうど、学生の時に教師から与えられた疑問の答えを、何一つ覚えていないように。
「誰よりも早くQさまの問題に解答する私」と、「自らの知的好奇心に耳を澄まし、自発的に勉強する人」では、やはり知識の定着に雲泥の差があるように思う。


うぅ…私の内からも(出来れば愛とか信仰とか愛とか高尚な)疑問がほとばしればいいのに…。
あぁ…私も疑問を抱きたい…。
そんな悩みを抱えながら、なにかいい本でもないかなー、なぜ私には疑問が生まれないのだろうという疑問に答えてくれる本ないかなーと、若干自分を鼓舞しながらAmazonを眺めていたら、次の書籍を発見した。

ハーバードの“正しい疑問

ハーバードの“正しい疑問"を持つ技術 成果を上げるリーダーの習慣

  • 作者: ロバート・スティーヴン・カプラン,福井久美子
  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウ
  • 発売日: 2015/07/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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…なかなかそそられるタイトルではある。
「ハーバード」というその文字だけで、やたらと説得力を感じる。
以前何かの書籍に、「デキる社員はあらゆることに”なぜ?”と疑問を抱く」なんて月並みなことが書かれていたけれど、その質をグッと高めるための技術だろうか。
とにかくハーバードらしいのだ。


でも、私が憧れる疑問を抱ける人は、どちらかというと、”正しい疑問”というより、”どうでもよい疑問”を抱いているように思う。
正確には‘傍から見たらどうでもいいけれど、本人からしたら由々しき疑問‘だろうか。
勝手に悩んでいて、勝手に歪んだ解答をひねり出すユニークな人。

私はそういう意味の無さみたいなものに希望を抱いていている。
別にその疑問を解決したからといって、成績が上がるわけでもない、恋が実るわけでもない、ましてや世界に平和が訪れるわけでもない。
でもそれに答えを出すと、自分の生活観がちょっと広がっていく疑問。
そんなものに自然と振り回されたら、案外人生楽しくなるんじゃないかな、と思う。


【問う人、高橋秀実】

 でもそんなふうに、湧き出る疑問に振り回されてる人って、どうやって見つけたらいいんだろう。見た感じ懊悩している人に、「あなた今、疑問湧き出てますよね」と聞くわけにもいかないし。掲示板にスレでもたてて、「こじらせてる人大集合」なんて呼びかけるか。いや、やっぱりそこは本を読んで、その人の思考を追体験するのが一番違和感ない。自称こじらせている人の話も聞いてみたいけれど、それはまたの機会に譲りたい。


そんなこんなで、最近出会った書籍がこちらである。

はい、泳げません (新潮文庫)

はい、泳げません (新潮文庫)

 

 

ざっと紹介しておくと、
水が怖くて仕方がない著者(執筆当時44歳)が、元競泳選手の女性トレーナーの教えのもとで「理不尽なことばかりだ」と嘆きながらも、自分との対話を通して次第に泳げるようになっていくさまを記録したエッセイ。

高橋さんのこの”自分との対話”が、はちゃめちゃに面白かった。
これが疑問を抱ける人だよなー。

たとえば、クロールにおける呼吸で常に心がけることは、真横に顔を上げるということです」という些細なアドバイスにも、頭を悩ませる。

私をさらに混乱させたのは「上げる」という表現だった。
上げるというからには「上」である。陸上で「上」とは頭頂部の方向である。長年そう思い込んでいるので、こうして横顔をつけた状態でも「上」というと、やはり頭頂部の方向のような気がする。立っている時に「上」だった方向、つまり天井の方向はここから見ると、さらに「横」で、真横の横となるとやはり首がねじれる。(p58)


と、言葉尻を捉えるようなことを言い出し、挙句、

泳ぐということは、陸上に置き換えると、空に向かって進むことになるのである。
今まで経験したことのない方向に向かって私は飛び立とうとしていたのである。
(中略)水泳とは「昇天」なのである。「呼吸しよう」などと考えず、やはり死んだつもりにならないといけないのである。(p58-59)


という謎めいた結論に至る。

「トレーナーの言っていることは矛盾しているじゃないか」、「泳げる人はモラル的に問題があるのでは」などと泳ぎたくない理由を必死に探しているように見えるのだけど、高橋さんの場合、それを疑問で終わらせず、捻りだす(捻りだしてしまう)答えがいつも”泳ぐ方向”へと向かっているから、毎回僅かながら進歩している。

たしかに、泳げなくても私たちは陸上で生活しているのだから死ぬことはない。
そもそも高橋さんは、自分は泳ぎたくない人だという。
でも、泳ぎたくないのに泳げちゃうという”一見すると無意味”を目指すことによって、内から湧き出てくる疑問と格闘している。いやむしろ、湧き出る疑問と格闘できるからこそ、目指すものを持ち続けられるのかもしれない。

クロールの際に目線をどこに預ければよいのだろうか、という疑問にも、「見ようと意識してはいけないっ…。滅私の目線でいなくてはならぬ」と、すぐさま仏像屋さんに行って如来像を参考にするほどであり、言ってしまえば”変な人”なのだが、私はなぜか羨ましくてしょうがないのである。矛盾に満ちた世界を楽しんでいるように、私には見えるのだ。


慣れ切った環境から脱出してみる

 疑問、疑問、疑問…。

高橋さんという人としての素質もあるのだろうけれど、「新しいことを始める」ことは、疑問を抱くトレーニングになりそうだ。
私も苦手な「ブログを書く」ということをはじめてみようと思う。

昨今の、ミニマリズム・断捨離的発想など、無駄を排斥する刹那的なブームの推進には、正直うんざりさせられている。
もっと無駄を見つけたほうがいいと思う。無駄がないとつまらない。
絶対に、人それぞれ自分だけの「由々しいけれど解決したからといって何てことない疑問」があるはずだ。ちょっとここらで、あなたの中にあるそんな”変な疑問”に耳を傾けてみてはどうだろう。