ちんもくの日記

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【生誕140周年 吉田博展①】吉田博とタルコフスキーの関係性

今年の7月8日(土)~8月27日(日)には東京の「損保ジャパン日本興亜美術館」でも開催されるようですが、絵画のみならず、映画や小説といったあらゆる「芸術」に関心のある人は、行っておいて間違いないと思える展覧会でした。₍以下、若干個人的な感想が強い面があるので、まだ見てなくて先入観に縛られたくない方は読まない方がいいかと思います。)

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久留米市美術館外観


【久々の美術館は緊張する】

吉田博の出身地でもあるため、館内はたくさんの人々で賑わっておりました。
見たところ、おめかしキメこんで高尚な趣味に勤しむ、ご年配の方々が多い印象。

よっしゃ、ここはいっちょなめられないように、貰った目録にいろいろ気付いたことを記入していこう。なんて意気揚々と見学しながらペンを走らせていたところ、学芸員のお姉さんが近づいてきて言いました。
『あのぉ、お客さま…。申し訳ありませんがこちらの鉛筆をお使いください』
「あっ…えっ………、」
激しく狼狽しながら、地元の献血センターでもらったペンを鞄にひっこめる私…。どうやらインクの洩れる可能性のあるものは使用禁止らしいのです。「ピコ太郎気取ってんじゃねぇぞ、この田舎モンが」と、私の中で被害妄想が爆発し、顔がカーーーッと赤くなってしまいました。

【安定を買うか、鍛錬を買うか】

そんな恥じらいを乗り越えた先に、ぼんやりと見えてきた吉田博像。
まずは作品解説を読みながら、自分なりに考えてみました。まず思ったのは、「作風にこだわらず流行に敏感」だなということ。やはり売れる芸術家の条件なのでしょう。貧乏してこそ真の芸術みたいな風潮は少なからずあるけれど、吉田博はとてもフットワークが軽く稼ぐのが上手だった。なんせ、初の海外渡航で展覧会を成功させ、当時の小学校教諭の給料の、およそ13年分を得たというのですから。よくわかりませんけど、いまの感覚で6000万円くらいでしょうか。そんだけお金があれば、私はとりあえずマンションを買い取りたいですが、吉田はそうはいかなかった。彼はそこで得た資金を旅費にあて、世界各国の景色を生涯描いていくんですね。身体の芯まで芸術家なのでしょう。骨の髄まで芸術家なのでしょう。私はアパートでもいいですが。

そして関東大震災の後、罹炎した仲間を救うべくアメリカに渡航して稼ぎどころを探すのですが、そこで木版画がウケることを目の当たりにし、よっしゃ木版やろうと取り掛かると、さっそく好評を博すことになります。そこから彼の木版人生は始まるわけですね。49歳にして、新しい技法を身に付けることは並大抵の努力ではできないと思います。その後吉田博は独自の技術を見出し、他にはない木版を作ったことで、世界的に有名な画家として認知されていったようです。
私もてっきり版画師だと思っていたので、この発見は面白かったです。
夏目漱石も彼の絵を認知していたようで、『三四郎』のワンシーンに登場するヴェニスの絵のモデルも会場では見ることができます。こちらは油彩ですが。

彼の詳しい画業遍歴は、以下の記事にまとめられていました。展覧会に行かれた方は、復習のつもりで覗いてみるといいかもしれません。

blog.kenfru.xyz

 

【吉田博とアンドレイ・タルコフスキー

客観的な人となりとしてよく言われているイメージが、「自然が好き(特に山)」「深山幽谷の一瞬を描く」「妥協を許さない絵の鬼」「生涯旅の画家」といったところでしょうか。版画を始めるまでは、水彩画・油絵・水墨画などさまざまな絵を描いています。

画法は違っても、会場に展示されているものの多くが風景を描いたもの。懐かしさ溢れる風景画のオンパレードです。でもただ懐かしいだけじゃなくて、いつでも目にしているような気がする自然の懐かしさ。この感覚は何からきているんだろうか、なんて考えていましたが、一人そこで思い当たる人物がいました。映画監督のアンドレイ・タルコフスキーです。吉田博の絵画の美しさたるや、アンドレイ・タルコフスキーの映画を彷彿させるようでした。(残念ながら映画館では観たことありませんが…)タルコフスキーも一瞬を撮るのが非常にうまい監督で、『鏡』の中での風の吹くワンシーンなんて奇跡としか言いようがありませんが、あの自然の一瞬の空気感を切り取る力みたいなものが、吉田博にも備わっていたように思います。形容しがたい朝陽や夕焼けの光の、究極の瞬間をよくとらえており、鑑賞しながら「うわーやべーこれも奇跡じゃん…」なんて二人の共通性を考えておりました。

たぶんその「究極の瞬間」って、じつは私たちの記憶に一様に定着しやすくて、各人の「山で見た朝陽といったら、こう!」や「海で見た夕焼けといったら、こう!」みたいなシンボル的イメージとして、潜在的に身体の中に眠っているんじゃないかと思います。アイコン的記憶というのでしょうか。そういう記憶を映し出す映画、そういう記憶を描き出す絵画だからこそ、ふたりの作品にはなんだか郷愁を感じずにはいられないのではないか。

必然的にそこで表現される「究極の瞬間」というのは、私の中の懐かしい自然の記憶に訴えかけてきますが、タルコフスキー映画が眠くなる所以というのが、ここにあるような気もしてきました。彼の映画は確かに進行しているし、動いている。動いているけれども静止しているように見えるほど退屈だ。それは他でもない自分の中に眠るイメージ(記憶)を見せられているからではないか。作品にもあるように『ノスタルジア』、まさに追憶体験です。「目はスクリーンへ、脳は記憶へ」みたいな。そう考えるとタルコフスキーの映画は超ヒーリング系映画とも言えそう。だとしたら吉田博の絵画も追憶体験のできる、ヒーリング系絵画ということになります。
いずれにせよ、松岡正剛さんが語っている、

タルコフスキーは「言葉によって失うもの」と「沈黙によって失うもの」の両方を映像に託したのである。

という表現も、吉田博における「絵画」にも当てはまるような気がして、それは彼もやはり追憶そのものを絵で表現できているからこそなのでしょう。
(527夜『アンドレイ・タルコフスキー』ピーター・グリーン|松岡正剛の千夜千冊より)

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『霧の農家』吉田博(めちゃタルコフスキーっぽい)*1

 

【過去ではない恒久的な懐かしさ】

いろいろ感想を連ねてみましたが、単純に色彩の感覚が並大抵ではない美しさなので、一見の価値はあると思います。私の場合、その懐かしさがタルコフスキー映画につながりましたが、もしかしたら懐かしい音楽が流れてくる人もいるかもしれないし、いつかの読書体験で頭に浮かんだ景色を思い出す人もいるかもしれません。そんな私たちの中にアイコンとして眠る、懐かしいけれどもよく知っている究極の瞬間を切り取るのが上手い画家でした。
他にも、美術館ならではの発見が出来ましたが、それはまた別の日記でまとめてみたいと思います。

*1:あまりペタペタ画像貼るのは好きじゃないですが、参考までに…。