ちんもくの日記

いい生活 映画 本 旅

森達也監督『FAKE』

都心では去年の6月頃に公開された森達也監督の「FAKE」が、ようやく地元の映画館にやってきたので観てきました。館長がもじもじと言いにくそうに告白していましたが、なんと本日がDVD発売日のようです。

 

f:id:eurybee:20170302024006j:plain
映画『FAKE』公式サイト|監督:森達也/出演:佐村河内守 より

魔女裁判ごっこしようぜ的メディア】
2014年の頭ごろに世間を騒がせた、あの佐村河内さんのその後を追ったドキュメンタリー映画で、森達也さん自身15年振りの新作のようです。ゴーストライター新垣さんの告白によって、メディアと世間に糾弾されることになった佐村河内さんは今、どんな生活を送っているのだろうという純粋な興味もありましたが、私がこの映画を観たいと思ったのは、メディアに対する不信感をどう処理すればいいかわからずにいたからでした。
問題発覚当時、マスコミは一方的に佐村河内さんを攻撃し、死に追いやるがごとく尋問めいたことをしていきましたが、私の印象では佐村河内の意見を尊重したメディアは全くなかった。そして耳が聞こえるか聞こえないかなんて本人にしかわからないはずなのに、メディアに同調して佐村河内さんを批判する人々がいました。はたして私たちの態度は正しいものだったのか。いろいろなところで言われているけれど、あれはイジメの構造と何ら変わりないのではないか。

私自身その当時感じていたことは、そんなに攻撃しなくてもいいのに、ということ。佐村河内さんの曲を聴いたことはないし、申し訳ありませんがCDなんてもってません。なので、「世間が騙された!」とメディアは鬼の首を取ったように言いますが、私はまず騙されてすらいない。なのに、「おぉ、入れ入れ!」と言わんばかりの怒れる仲間たちからのお誘い。見ず知らずの花見に誘われるようなストレスを感じていました。
もし私がCDを持っていたら話は変わってきて、怒る気持ちも分からなくはない。でも、そうなると好んで聴いていたはずの音楽そのものの価値はなんだったんだということになりかねません。癒されてたんじゃないの?勇気与えられてたのはわかるけど、その見方こそ差別的なのでは?

いったい当時、報道により怒り狂っていた不特定多数の人々は何者だったのか、そしてそれを扇動したマスコミとはいったい何だったのかという問いの答えに、この映画を観たら近づけるかもしれない。そんな期待を抱いて私は映画館へと赴いたわけです。

【映画を観て】
彼はきれいな音で話すことはできます。差別的な見方をしてしまう私たちにとって、これは少々疑念材料となったことは間違いないでしょう。でも、「もともと成人するまでは普通に聞こえていた」という彼の主張をちゃんと聞くと、「ああ、だったらわからなくもないな」と、納得することもできます。
じゃあ今、どのように聞こえているのか。
佐村河内さんの聴覚確認という形からこの映画はスタートします。
森達也さんが視聴者の声を代弁するように「なんて言っているかわかりますか?」と問いかけると、近いところまでは解答できるのだけど、やっぱり完全にはわからない。どうやら感音性難聴といって、ぼやけた音は聞こえるけれど正確には聞き取れないという症状をお持ちのようです。例えるなら、薄いモザイクのかかった映像を見るような感じでしょうか。なので普段は奥さんである香さんの手話を通して、他者とコミュニケーションをとっているようです。

これはもう私たちには信じることしかできない。同じように、新垣さんが言った「彼が耳が不自由だと感じたことは一度もない」という意見も、私たちには信じることしかできない。でも、もしかしたらどちらかが嘘をついているかもしれない。そして、もしかすると感音性難聴という障害への認識の齟齬によって生まれた、ふたつの真実なのかもしれない。

ここではそれが真実かFAKEかは置いておきますが、佐村河内さんは1つの嘘は認めています。それは「新垣さんの手を借りて音楽制作をおこなっていた」ということ。あれは彼一人によるものではなく「共作だったんだ」と。新垣さんはこれに対しては「共作なんてもんじゃなくて私がメインで作ったものだ」と言っているようですが、佐村河内さんによる楽曲の指示書や意思が反映されているというのは事実ですから、これらの意見はただの主観的な問題にすぎないと私は思います。

でも、ここで気になったことは、佐村河内さんはなぜあれほどのイメージとセンスがありながら、新垣さんの手に頼ったのかということです。もしも私が同じ立場になったことを考えたら、楽譜や録音の勉強をするかもしれません。そんな問いかけを外国人記者がしていましたが、その佐村河内さんの回答もよくわかるなぁと思うわけです。

「誰かと音楽を作りたかったのかもしれない」

彼の抱いていた孤独感もわかるし、人と作品をつくることの喜びもなんとなく理解できる。ちょっと心を佐村河内側に持っていかれそうにはなりましたが、そんな情で動いてしまったら、新垣さんを支持することと何ら変わりないのではないだろうか。私の中で、何を信じればいいのか、そもそも何かを信じなければならないのかという疑問が暗雲のように立ち込めてきました。そしてそんな中でラスト12分間の衝撃…。

くそう、くそう、くそう!!どうしたらいいんだ…。
たしかにこの問題で傷ついた多くの人たちがいるわけだし…。
そんな人たちに同情こそすれど、新垣さんを支持したいわけでもない…。
ましてや佐村河内さんを批難したいわけでもない…。
でもなぜか、簡単に答えの出せないこの上映時間がどうも心地よい。


【不信感と心地よさの正体】
結論をいえば、簡単なことなのですが、私はこの映画を観てやっと中立的な立場に立てたことが救いとなりました。多分、私があの当時抱いていた不信感の正体は、一方的な報道によって罪を背負わされてしまったことによるストレスだったのだと思います。どういうことかというと、勝手にマスコミの共犯者に仕立て上げられたことにより生じた、罪悪感。そういう潜在的な意識にひどく疲労していた。私は、考えないことは楽なことだと今まで思っていたのですが、無意識を強制されることは思ったよりも疲れることなのかもしれません。自分で考えて意見することも疲れるけれど、中立的な立場になって私なりの正しさを見出せる今の状態はとても自由で心地が良い。
ではあの一件で佐村河内さんを糾弾した不特定多数の人々は、何者だったのか。私が思うに彼らもまた、マスコミによって覚えのない共犯者にさせられ、考える自由を剝奪され、そして正体の分からない怒りを秘めることが出来なかっただけの被害者なのでしょう。私も怒りを植えつけられていたようですが、「私はこう思える」という意識によってだいぶ鎮まってはいます。
以上のようなことにこの映画は気付かせてくれたような気がします。

魔女裁判への対処法】
私としては自分の知識の及ばない、号泣議員やスタップ細胞やゲス不倫に関してはまったく意見することに反対なのですが、ようやく佐村河内さんのことに関しては考える資格をえたような気がします。それでも「考える資格」です。私は他人の生死を左右するような報道のネタには迂闊に結論は出せませんし、安易にコメントすることもできません。コメントするということは、ほんとはもっと「熟考」と「勇気」がいるようなことに思えるからです。
とりあえずメディアはただの情報だと心得ておく。
真実や虚偽は、二元論で語ることが出来ないときもあるということを知っておく。
それからやっと自分で立ち止まってまず自由に考えてみる。みんながその心地よさの中で本当の言葉を意見し合えたら、メディアもちょっとはマジメになるんじゃないかと思うのだけれど。そんな、本当に月並みなことを述べて、感想を終わりにしたいと思います。

youtu.be

FAKE ディレクターズ・カット版 [DVD]

FAKE ディレクターズ・カット版 [DVD]

 

 
追記:森達也さんが新垣さんにインタビューしようと何度も試みているのに断られ続けるけれど、これは対話の拒否でしかなく、結局は偏向報道の延長線上に生きている人なのだと思わざるをえない。そして同時に、彼らの対話によって生み出されるであろう真実により、罪が生じてしまうことをメディアが一番恐れているような気がしてならない。